うるさい。
眠りを妨げる雑音はなん……だ?
甘ったるい声が耳障りで、少年は体をひねりその声から少しでも遠ざかろうと身を丸める。
背中を向けたら少し煩わしさが減ったような気がしたので、少年は再び深い眠りに落ちていった。
少年の隣りではすでに目覚めていた青年が、子供が母親にねだるような声で――周囲に気を使ってか、一応小声で――キャビンアテンダントの女性に手をすり合わせて頼んでいた。
おまけにウィンクつき。
「だからさ〜、そこをなんとか。ね、お願い。この通り」
先ほどから繰り返されている光景なのだが、青年は相手が断りきれないことにつけこんで何度もアタックしている。
いうなればしつこい。
だが、しつこすぎず、引き際を心得ているので女性にとってはなんとも扱いにくいお客だった。しつこいだけならばキッパリと断れるのだが。
「仕事中だってことはわかってるって、教えてもらったらもう邪魔はしませんよ、おねーさま」
「仕事中ですので……」
「迷惑はかけません」
「でも……」
客室乗務員は相手をむげに扱うこともできず、応対に困り果てていた。
すっかり眉尻が下がってしまっている。
暫くそんなやりとりが続いていると、
「失礼致します。何かお困りでしょうか?」
静かに音もなく現れたのは、一見柔らかい物腰のみめ麗しい女性だった。
「チーフ!」
「この場は私に任せて、あなたは持ち場に戻って」
声をかけられた女性は上司の姿を目にとめるとホッと安堵した。
そして頷き、青年には礼をしてその場を辞した。
青年――サンジは微笑んで新たな登場人物を迎えた。
だが、目には驚きを隠せないでいたし、背中には静かに緊張が走っていた。
自分が――たとえ女性と話をしている最中だとしても――気配を察知できずに近付かれるなんて。
考えられない。
ずっと気を張りつめていたというのに。
緊張の空気を知ってか知らずか、チーフと呼ばれた女性は上品な笑顔でゆっくりと話かけてきた。
まるでこの場を和やかにするように。
サラリとひとふさ耳の前で垂らしたオレンジ色の髪がふわりと揺れる。
「部下が何かご迷惑を掛けしましたか?」
「いえ、まったく。私的な内容を一方的にお願いしてしまった為に先ほどの方の時間を割いてしまったようで」
「そうでしたか。――飲み物でもお持ちしましょうか?」
「じゃあ……コーヒーを一つお願いします」
はい、と言って美しいお辞儀をすると、キャビンアテンダントは静かに戻って行った。
「…………キャビンアテンダント チーフ、ナミ……か」
それにしても、自然な流れで会話を打ち切られた気がしてならない。
名札に書かれてあった名前を記憶していたサンジは、ナミの後姿を他の女性を見る時とは違って険しい目つきで見送っていた。
足の運び方。
目の配り方。
動き。
どれを見ても不審な感はない。
だが先ほど音もなく視界に現れたのはいったいなんだったのか。
ふに落ちない考えがついポロリと口をつく。
「気張りすぎか、おれ? もしくは寝ぼけてる?」
自問しても周りから答えはなかった。
いつもなら何かとツッコンでくるヤツはいまだ夢の中。
背中を丸めて寝ている様はまだまだ子供のもので。いつも、ついつい構いたくなる。
「おれよか寝るのにどうして小さいかな? 寝る子は育つってありゃ、デマだな」
◇◆◇
あの金髪の青年は一瞬、そう、ほんの一瞬険しい顔でこちらを見た。
(ただ驚いたってわけじゃなさそうだった……後輩との会話で見せた表情とまったく違ったし。例えるなら弛んでいた紐を急にピンと引っ張ったような気の張りようだったわね)
ナミとしてはいつものクセでヒールで歩く時は音をたてないように気を配っていただけなのだが。
それとも…………もう一つのクセがでた?
いえ、それは考えすぎよ。
頭に浮かんだ考えを即座に否定し、カップにコーヒーを注いでいると先ほど青年につかまっていたキャビンアテンダントの後輩がおずおずと近付いてきた。
「あの、先ほどは有難うございました。断るに断れなくて。本当チーフが来て下さって助かりました」
「いいのよ、私も新人の頃はどうやってあしらうかよくわからなくて悪戦苦闘したわ。でも、次からは助けにいけないかもしれないから自分で頑張りなさい」
「はい! ……あ、チーフ。それはそうと、あの金髪の青年どこかで見たことありませんか? 私どこかで見た気がして」
「え? 個人的なお知り合いとか?」
「そういうのじゃなくて。咽まできてるのにつかえたように思い出せない! ああ、気になる」
焦れる後輩を横目に、わかったら教えてと言い残し、ナミは注いだコーヒーをお盆にのせて先ほどの青年の元に向かった。
少し歩いた所で、ナミはお客様が読んでいた新聞の内容が視界に飛び込んできた。
『皇太子と護衛が公務を休んでお忍び旅行か?!』
(お忍び旅行って、新婚じゃあるま、い、し……そういえば)
お忍び旅行という言葉に、ナミは搭乗前の打ち合わせでのことを思い出した。
いつも行われるミーティングの後、機長に呼ばれて小声で耳うちされたのだ。
『……極秘事項なんだが。チーフは知っておいたほうがいいと思って。今から話すことは内密に願いたい』
『……わかりました』
『某国の皇太子と護衛がお忍びで出かけられたとの噂があってな。どの便に乗るとはわかっていないが、いざという時にはサポートできるよう頭には入れておいてもらいたい。宜しく頼む』
『……はい』
お忍びで出かけるなど、なんと迷惑なとその時内心ではそう思っていた。
無謀にもほどがある。
それとも、2人のみで出かけるという無謀を可能にする凄腕の護衛でもついているのだろうか。
折りしも、視界に先ほどの金髪の青年が見えた。
じっとこちらを伺うように見ている。
――そんな気がした。まるで品定めされている気分だ。
いや、実際確かめているのかも。
だとしたら。
目まぐるしく回転する脳内とは別に、表面上では上品な笑顔を保ったままナミは青年にコーヒーを渡そうと手を伸ばす。
と、その手を両手で挟むようにつかまれてしまった。
突然のことでギョッとしたものの、ナミはやんわりと断りをいれる。
「カップが熱いので手を放して下さいませんか」
「ああ、これはすみません。失礼を」
「はあ……」
「実はご相談がありまして」
「相談ですか? ――と、その前に手を放して下さい。仕事中ですので」
ニッコリと凄みのある笑顔を向けてナミはコーヒーを今度こそ手渡した。
カップを手渡す時に触れ合った感触に頬が緩むのを自覚しつつ、サンジは甘い言葉を被せた。
周囲に視線を転じて、声を抑える。
「お嬢さんの電話番号とアドレス教えて頂けませんか? ――実は公けには言えないのですが、某国の王子でして」
「――……王子ですか?」
「もちろん。どうでしょうあなたの大切なひと時を私に頂けませんか?」
「……――王子、あなたが?」
「はい。それとも、寝ぼけて何度も頭を窓に打ち付けている隣のお子様が王子だとでも? それは酷い誤解だ」
およよ、とハンカチをどこからか取り出し悔しそうに――しかし上品に隅をカリっと――かじる。
自らを王子と名乗る青年は控えめに言ってもあからさまに怪しかった。けれど、搭乗前に機長から言われた事が頭をよぎる。
(でも新聞記事を見て虚言を言っている可能性も捨てられないし――)
しらける演技ねー、と内心思ってはいたが表情には出さずに、しかしいい加減相手をするのも鬱陶しかったので先ほどから気になる点を指摘してみることにした。
しつこい客――ナンパ男――には制裁をがナミのもっとうだ。
先ほどまでのにこやかな営業スマイルをやめ、不適に微笑むとサンジと名乗る青年の耳元へ口を寄せた。
「王子は……――自らを王子と名乗らないのでは? 仮に言ったとしても、キャビンアテンダントとお喋りしている間も通路を通る人間全てに目を光らせはしないと思います。まるで不審者に目を光らせているような態度、気を使われる側というよりも――――むしろ気を使う側」
「うんうん、それで?」
「……加えてあなたは窓側で寝てらっしゃる緑色の頭のお客様、あの方の健康状態にもとても気をつけていらっしゃいます。それと先に奪うように料理へ口をつけているのは、隣のお客様をからかっているようにも見えますが、毒見なのかと」
「あらあら……まだありますか?」
「そういうことなら」
追い詰めているはずなのに、どこか余裕ともとれる態度にナミは相手の耳元へ寄せていた顔を戻して距離をとった。
かまをかけてみるつもりがはめられているような嫌な感じ。微笑んでいる相手は苦手だ。
あなたの秘密を知っているからこれ以上仕事の邪魔をしないように、ただ始めはそう匂わせたかっただけなのに。
挑発されているのか、試されているのか。途中からわからなくなってしまった。これではペースが乱される。
ナミは自分の喋りやすい間合いを取り、真っ直ぐ相手の目を見て静かに言葉を続けた。
「はっきり申し上げますと、あなたは王子というよりも護衛ではありませんか? 王子は窓側でご就寝」
ずばり、核心をつく。
にやにやした笑顔をやめさせるつもりで。
けれど返ってきた答えは意外な所から。今まで寝ていたとばかり思っていた緑色の髪の少年だった。
声変わり前の少し高めの声で、
「おまえの負けだろ、サンジ」
面白くない話題で睡眠を邪魔するなといわんばかりの傲慢な言い方だった。
◇◆◇
「じゃあねーナミすわーん! 絶対連絡してねー」
目的に到着し、入国ゲートに向かうサンジとその横で寝ぼけたままの緑色の王子をナミは満面の笑みで見送った。
満面の笑みがうっすら引きつった感じがするのは仕方のないこといえる。
名残おしそうにまたもやハンカチをかんでいるサンジに機内で散々振り回された反動だった。
ずばり核心をついた後――――
正体を的確に言い当てた事により、かえって不測の事態を招いてしまった。結果、サンジは何かにつけて「正体がバレかけているんだ、助けて」と言っては用もないのにナミをちょくちょく呼ぶようになった。
馴れ馴れしい態度に露骨に顔をしかめたくなることもしばしば。
だがナミは仕事中でそうそうサンジに構ってられないと告げると、サンジはすぐ機長に直談判をした。簡単に会えたのは某国の紋章を見せてなかば無理やり納得させたから。
最後には口の堅いナミに連絡先を聞き出すのを諦めたのか、サンジの連絡先が書かれたメモを強引に押し付けられてしまったという訳だ。
「つ、疲れた……――それにしても」
サンジと何度か話しているうちに、いつの日か偏頭痛で苦しんでいた少年が王子だと気づいた。
けれど相手はナミの事など覚えていなかった。始終無言で、まるでサンジ君の独り旅のようだったわね、とナミは思う。終始無言だし、なにより目に力がないのだ。意識を集中していないという訳ではなく、死んだ魚のような目というか。
青春期によくある反抗期というものなのか。
じっくり相手を知る、そんな時間もなかった為ナミにはわからなかった。知ろうという気もさらさらなかったが。
よく喋る護衛と無口な王子。
もう二度と会うこともないだろうけど、よい旅を。
ナミはサンジから受け取ったメモをビリビリに引き裂いて――まるで機内で振り回された事がなかったかのように――綺麗さっぱり忘れる事にした。
つづく
◆マリー・テレーズ(Marie-Therese) 様
◆Master:槇冬虫(Tentoumushi)