青年――と呼ぶには幼い顔つきだった――が肘掛(ひじかけ)に肘をのせ、手で頭を重そうに支えていた。
眉間(みけん)に皺(しわ)を寄せ、顔からは先ほどから玉になっている冷汗が今にも流れ落ちそうだ。
音楽でも聞いて気分を紛らわそうと思い身近にあったリモコンを押してみる。だが点いたのは音楽が流れるボタンではなく、個々人にあてがわれているライトだった。
先ほどまであまり視界が利かなかったが、ライトのお陰で隣人の顔が否応なしに見る羽目になった。
(ッうゥ。いてェ……耳掃除しすぎたか。それにしても、こいつの幸せそうな寝顔見るのはなんだか癪(しゃく)だな。いっそ嫌がらせに起こしてやろうか)
二人掛(が)けの席の通路側の男を見降ろし、幼い顔をした青年は意地悪い考えが頭をかすめた。
ぐるぐる無意味にカールしたまゆげとニヘラとしたしまりのない口元――きっとまたどこぞの女の尻でも追いかけている夢を見ているのだろう。そしてサラサラと流れる金髪は青年の目を隠してはいるが口元までは覆えはしなかった。
さも幸せそうにして眠る姿は、窓際で苦痛に顔を歪(ゆが)める彼とは大違いだ。
寝てても腹が立つとは。全く嫌味な野郎だぜったく。
と軽口を叩こうとした彼はこう言うに留めた。
「くたばれ……あほ王子」
ぐるぐるまゆげの青年と彼は、主(あるじ)と従う者という立場だ。
自由を得る為には多少の犠牲はつきもので。
――ようは利害が一致した為にその立場を受け入れたのだが。
普段と違う長旅に、幼顔の青年は戸惑っていた。
原因の一つは、彼がいる場所は地上から33000ft(フィート)も離れた上空にいる事だった。
ドクドクドク……。
飛行機の中にいる、その事実を思い出したせいで余計に耳の奥はズキズキ疼(うず)き、次第には頭痛までし始めた。
こんな時どうすればよいのか、痛みに気をとられていた彼は眠る事なく助けを求めるという初歩的な考えも浮かばずに、苦痛に耐えるしかなかった。
折りしもその時、
「どうされましたか?」
と、綺麗な発音で発せられた共通語が彼の耳に届いた。
明かりを落とした機内を静かに、かつ慎重にお客様の様子を窺いつつ歩を進める。
オレンジ色の髪の毛をきっちりと一つに結え、目元はキリリと引き締まっていて凛々(りり)しい。
キャビン・アテンダントである彼女は見回りをしていた。
首に巻かれたスカーフは大きいながらもまとめられており、だらしなくは見えない。スッキリと着こなされた制服からも、彼女の几帳面(きちょうめん)さが窺(うかが)い知ることができた。
胸のプレートには、チーフ キャビン・アテンダント ナミと書かれている。彼女――ナミはエコノミークラスの席を通り過ぎようとした時前方に明かりを見つけた。
サッと腕時計に目を落とすと現地時間で深夜の3時をさしている。
寝つけないのだろうか、時差に悩まされているのかもしれない。または、寝つけずに明かりをつけて読書をしているお客様かもしれなかったが。
ライトが点いている場所へ着いた時、ナミは手で頭を支えて苦しそうなお客様を目にした。
声を落とし、驚かせないように膝(ひざ)を折って目線を合わせ、そっと声をかけた。
「どうされましたか?」
声に反応したらしく、ゆっくりと顔を持ち上げてそのお客は黒く縁取(ふちど)られたメガネの奥からナミを見た。
「頭痛が酷くて」
ボソボソとした喋り方だったが、時間が時間だったので難なく聞きとることがナミにはできた。
ライトに反射して玉のような汗が浮かんでいるのが見てとれる。
「耳抜きはされましたか?」
「いや……できない」
「では飲み物をお持ち致します。あとタオルと頭痛薬も。暫(しばら)くお待ち下さい」
できるだけ落ち着いた声で、彼を安心させるように努めた。
身を翻(ひるがえ)して必要な物を頭に思い浮かべる。
そして残りの見回りをする者を手配する事を考えていた。
◇◆◇
飛行機の中ではあえてビジネスクラスを選び、始めはしぶしぶながらも旅が楽しみだった。息抜きだからと護衛も連れずに出てきたものだから、ファーストクラスを陣取るのは経費の無駄遣いのように思われてエコノミークラスを選ぼうとした。
だが異をとなえたのはぐるぐるマユゲで、
「あほ、この俺――黄昏のプリンスがエコノミー症候群になったらどうすんだよ。せめてビジネスクラスでないと行かないから。それにエコノミーだと長い足が窮屈(きゅうくつ)でたまらん」
なんとも我がままなものだ。
しかし、確かに慣れない席で緊張し、病気にかかって早々に国へ連れ戻されるよりも、席を替えるだけで安心できかつ文句も出ないならビジネスクラスに替えた方がよいと判断した。
暫く経って、旅そのものをやめたくなった出来事が起こった。
ぐるぐるマユゲによって。
「お嬢さん、フライトが終わってから君を独占する時間が欲しいのだけど……」
飲み物を配っていたキャビン・アテンダントの手をさり気無く両手で掴み、誰もがうっとりとするような笑顔でニコリと笑いかけたのだ。
相手は慣れたもので、「申し訳ございません。仕事中ですので」とあくまで丁寧に断っていたが、その言葉には惜しまれつつ、という感情が見え隠れしていた。
まだ、それだけで終わればよかったのだが。あろうことか、ぐるぐるマユゲは何度も繰り返していた。
キャビン・アテンダントの困りようを見かねて、
「やめろ、迷惑だろうが」
「黙れ、根暗」
「ゥるせェ、素敵マユゲ。サンジのサは、詐欺師(さぎし)のサだと言いふらすぞ」
「アーー? おまえがァ? 人とろくに話できないロロノア君がァ?」
「その口閉じさせてらろうか。永遠に」
「できるもんならやってみろ。ま、どうせ社交的な俺に対して僻(ひが)んでるだけだろうけど」
「…………うるせェ」
声が尻すぼみに聞こえたのは、けっして羨ましいからではない。何もかも正反対なこの男にイライラさせられっぱなしなのは認めるが。
声を抑えてロロノアと呼ばれた青年は忌々(いまいま)しそうに言葉を続けた。
「わかってるだろうが、派手な行動取れば、おまえも俺もすぐに連れ戻されるんだ。行動をわきまえろ」
「誰に向って口を聞いてんだか。考えて動いてるに決まってんだろ。……それより、おまえ。俺にそれだけペラペラ喋れるんだったら普段もそうしろよ」
「…………話を混ぜ返すんじゃねェ!」
最後に我慢し切れず大声を上げた青年――幼さの残る――ロロノアが注意を受ける羽目になったのだった。
「お待たせ致しました。さあ、どうぞ」
耳に心地よい声を聞いて、ロロノア・ゾロは現実に引き戻された。
飛行機に乗る前にも色々と問題が多かったが、機内までもサンジの世話をさせられる事になるとは。はてまた、ズキズキ……と耳の奥が疼(うず)くし。
踏んだり蹴ったりとはこのことだな、と彼は溜息(ためいき)をもらした。
溜息を対応の遅さと受け取った乗務員は、細い眉を申し訳なさそうに下げて、
「遅くなりましてすみません、水を飲んでみて下さい。耳ぬきができるかもしれません。それと、お薬をお持ちしました。頭痛が和らぐと思います。また何かありましたら乗務員を呼ぶボタンを押してお知らせ下さい」
「いや……ちが……」
違うんだ、と言葉を続けようと声のする方見たゾロは言葉が続かなかった。
とても綺麗な乗務員だったからだ。
瞳が濃い赤茶けた色で、すっきりとした顎(あご)の線が美しい。だが、見た目だけの美しさだけではなく、目を見ているといかにも賢そうなイメージを受ける。内面の美しさも顔に出ているのだろう。
ゾロは普段から美女と呼ばれる女性を数多く見る機会があったが、その中でもとりわけ上位に位置するだろうと思った。
そして同時にサンジが挫(くじ)けずに誘う訳もわかったような気がした――この女性を誘っていれば、の話だが。いちいちサンジが声をかける乗務員を見ていたわけではなかった。
「では、失礼致します」
ニコリと笑顔を浮かべ、その女性は業務へと戻って行った。
静かに去っていく後姿を眺(なが)めていたゾロは、やがて彼女が見えなくなると水を飲み始めた。
薬のお陰もあってかその後ゾロは睡眠を貪ることができたのだった。
その後、気持ち良く起きた彼の脳内には、お世話になった乗務員のことが頭から抜け落ちていた。
つづく
◆マリー・テレーズ(Marie-Therese) 様
◆Master:槇冬虫(Tentoumushi)